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倍子崩政
- 1 出雲の下関/馬関出雲@Z8LyEEA0 [2025/06/11(Wed) 15:35]
- 42期ですね。
私が入ってから2倍・・・🤔
Twitter:URL貼るのめんどい😇
- 141 上町さかえ(馬関出雲)@NyrFcbA0 [2025/06/25(Wed) 12:22]
- あ
- 142 出雲の下関/馬関出雲@.vO92e2y [2025/06/25(Wed) 19:50]
- あげ
- 143 出雲の下関/馬関出雲@.vO92e2y [2025/06/26(Thu) 00:11]
- 寝る
- 144 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 09:59]
- ふぇ
- 145 上町さかえ(馬関出雲)@ILBlhGU0 [2025/06/26(Thu) 10:11]
- 大阪都構想、若者は賛成多数だったんだけど60〜90代が反対したから実現しなかったんだよな。
当時小3の俺も投票所に親と一緒に行ったけど、投票所前で反対活動してたのも老人ばっかだったし…。案自体はいいのにねぇ…。
切ない。
- 146 上町さかえ(馬関出雲)@NyrFcbA0 [2025/06/26(Thu) 13:32]
- 面白そうな世界線が頭の中に思い浮かんだので書いていく。
- 147 上町さかえ(馬関出雲)@7225ydY0 [2025/06/26(Thu) 13:33]
- 1911年10月10日、武昌で蜂起した新軍によって始まった辛亥革命は、清朝崩壊を目指す革命党(中国同盟会)と、一部新軍および地方官僚の離反によって急速に各地へ拡大した。だがこの世界線において、革命の命運を大きく分けたのは、当時重病で政務を執れなかった袁世凱に代わって、満洲の軍閥を統率していた張作霖が鎮圧の全権を委任されたことである。
- 148 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 13:33]
- 張作霖は、極めて迅速かつ容赦のない手段をもって武漢三鎮を包囲。日本製の山砲と機関銃を投入して市街戦を強行突破し、革命派を掃討した。1912年1月、南京に臨時政府を打ち立てた孫文は、援軍を得られぬまま南逃、同年3月に広州で拘束され、厳重な軟禁に処された。
- 149 上町さかえ(馬関出雲)@zN75zg.0 [2025/06/26(Thu) 13:34]
- 張作霖の活躍により、宮中では彼を「遼東王」とするような動きすら現れた。実際に、1912年4月、溥儀の勅令により新設された遼東枢密内閣は、張作霖を首座とし、満洲・東北官僚を中心に構成された実質的な軍政内閣であった。
- 150 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 13:35]
- 遼東枢密内閣は以下の方針を発表した:
八旗再編と軍制の近代化(ドイツ式訓練導入)
各省督撫の任命権を枢密院へ集中
革命思想(共和主義・議会主義)の一掃と知識人の登録制
清朝による憲政改革の準備(名目上の「立憲君主制」への布石)
- 151 上町さかえ(馬関出雲)@7225ydY0 [2025/06/26(Thu) 13:35]
- この結果、地方軍閥の再独立は抑えられ、中央集権的な軍政体制が確立されつつあった。
- 152 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 13:36]
- 1913年、張作霖は密かにドイツ帝国との軍事顧問協定を締結。旧日本陸軍からの装備輸入に制限を設け、代わってクルップ社製砲とマウザー銃の採用が決定された。同時に、清朝は中央同盟国(独・墺・伊)との親善使節団を派遣し、「西洋式皇帝専制」の模範としてヴィルヘルム2世体制に学ぶ姿勢を見せた。
- 153 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 13:37]
- サラエボ事件後、欧州で勃発した第一次世界大戦に対し、清朝内では中立を唱える漢族文官と、参戦を主張する満洲派軍人の対立が激化。最終的に張作霖の主導により、1914年12月、清国は中央同盟国の一員として参戦を決定。敵はイギリス、日本、ロシアとされた。
- 154 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 13:38]
- 清朝政府は、日本の山東半島侵略と「東洋の盟主」的野心を激しく非難し、「東亜の主軸は大清帝国にあり」と宣言。満洲・山海関以南では総動員令が敷かれ、張学良が新設された第1皇軍集団の指揮官に任命された。
- 155 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 13:39]
- 1915年春、大清帝国は第一次大戦の一環として、かつて失われた山東半島を奪還すべく大規模な対日軍事行動を開始した。張作霖は「東征総帥」として自ら旅順に司令部を置き、元奉天派の将兵を中心に構成された皇軍第1集団軍に作戦命令を下した。
- 156 上町さかえ(馬関出雲)@7225ydY0 [2025/06/26(Thu) 13:40]
- 同年5月、膠州湾を防衛する日本陸軍と清国軍が正面衝突。ドイツ製の重砲による猛攻と、塹壕戦術を学んだ清国軍は奮戦し、膠州市街の一部で一時的に主導権を握るも、最終的に日本海軍の艦砲射撃によって退却を余儀なくされた。
- 157 上町さかえ(馬関出雲)@7225ydY0 [2025/06/26(Thu) 13:40]
- 清国軍は膠州敗退後、防衛線を南へ移し、上海・寧波一帯で持久戦を展開。1916年、英軍海兵隊と日本陸軍が共同で揚子江河口を封鎖するが、張学良の指揮による清国水雷艇隊が夜襲を仕掛け、巡洋艦2隻に損傷を与える戦果を挙げた(海口の戦い)
この戦闘を契機に、大清帝国の「皇軍海防隊」は一部で国民的英雄と化し、満漢を超えて皇帝体制への支持が高まった。
- 158 上町さかえ(馬関出雲)@zN75zg.0 [2025/06/26(Thu) 13:41]
- 1916年、ロシア帝国は清国北部に対して干渉を強め、外蒙古およびトゥヴァ地域で清露両軍が小規模ながら激しく衝突。張作霖はこれを「正統な皇恩の回復」と称し、ツァーリ政府との国境線再交渉を拒否した。
- 159 上町さかえ(馬関出雲)@7225ydY0 [2025/06/26(Thu) 13:42]
- 満洲軍は冬季にトゥヴァへ越境作戦を展開、一時ウリャンハイを占領するが、極寒と補給困難のために撤退。この作戦は清軍の戦力投射能力の限界を露呈した一方、満洲技術団による寒冷地工兵術が評価された。
- 160 上町さかえ(馬関出雲)@NyrFcbA0 [2025/06/26(Thu) 13:42]
- 1918年秋、ドイツの敗北が確実となると、清国政府は講和への動きを見せる。1919年、ヴェルサイユ講和会議に「大清帝国特使団」が派遣され、満洲を含む領土保全と戦後賠償の軽減を求めたが、戦勝国とは認められず、逆に山東半島の日本支配を追認される結果となった。
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