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倍子崩政
- 1 出雲の下関/馬関出雲@Z8LyEEA0 [2025/06/11(Wed) 15:35]
- 42期ですね。
私が入ってから2倍・・・🤔
Twitter:URL貼るのめんどい😇
- 163 上町さかえ(馬関出雲)@zN75zg.0 [2025/06/26(Thu) 13:52]
- 1920年代に入ると、清朝政府は共産主義者や共和主義者、自由主義者を徹底的に弾圧した。国家保安局(国保)による監視・密告網が全国に張り巡らされ、1924年から1927年にかけては数度の大規模な政治摘発が行われた。
特に1927年の「南方清剿作戦」では、上海や広州を中心に約1万人の疑わしい思想犯が逮捕・拘禁され、処刑や強制労働に処された。反体制運動は地下に潜伏しつつも、密告と拷問により組織的活動はほぼ壊滅した。
- 164 上町さかえ(馬関出雲)@7225ydY0 [2025/06/26(Thu) 13:53]
- 同時期に清朝政府は文化政策を強化し、「皇道主義」を国民精神の柱に据えた。全国の学校で「忠君愛国」「五族協和」の教義が厳格に教え込まれ、書籍や演劇も厳しく検閲された。
これにより、伝統的な儒教思想が再評価される一方で、西洋由来の民主主義思想や自由主義文学は禁書扱いとなった。文化人の多くは排斥されるか、自発的に亡命した。
- 165 上町さかえ(馬関出雲)@7225ydY0 [2025/06/26(Thu) 13:54]
- 1923年から進められた「満洲工業五ヵ年計画」により、満洲地域の工業化が急速に進展。特に鉄道、製鉄、石炭採掘が拡大し、労働者階級が急増した。
一方で、労働条件の悪化や賃金格差により労働運動も活発化。だが政府はこれを「反革命的暴動」と断じて弾圧し、1926年の奉天大規模ストライキも国保によって鎮圧された。
- 166 上町さかえ(馬関出雲)@7225ydY0 [2025/06/26(Thu) 13:55]
- 1920年代後半には、米国やソ連が清朝との外交関係を模索し始めた。1924年、ソ連は清朝を承認し、モンゴルとの境界画定協定を締結。米国も1927年に商務条約を結び、満洲での投資権を拡大した。
一方、日本は満洲における影響力を維持しつつ、張学良政権に対して警戒感を強め、軍部主導の対清圧力が増大。これにより満洲は東アジアにおける国際的な緊張の火種となっていった。
- 167 上町さかえ(馬関出雲)@zN75zg.0 [2025/06/26(Thu) 13:55]
- 1928年6月、奉天駅で発生した張作霖暗殺事件は、「満洲爆殺事件」と呼ばれ、張作霖の死は清帝国にとって大きな衝撃であった。日本関東軍の関与が強く疑われたこの事件は、清朝と日本の関係を急激に悪化させ、満洲を巡る対立は軍事衝突の瀬戸際に達した。
後継の張学良は父の政策を継承しつつも、日本への対応において一定の柔軟姿勢を示すものの、国内の強硬派勢力は対日強硬路線を求めて結束した。これにより政治的対立が激化し、満洲地域は実質的に軍閥の支配下に置かれた。
- 168 上町さかえ(馬関出雲)@zN75zg.0 [2025/06/26(Thu) 13:56]
- 1930年代初頭、清朝政府は「皇道政体」を国家の基本体制として公式に採用。皇帝を中心とした全権独裁体制が完成し、軍部・官僚機構が一体となって国政を掌握した。
国家総督府は軍事力の強化と社会統制を最優先課題とし、治安維持法の強化、秘密警察の活動活発化により、反対勢力や少数民族の弾圧が拡大した。
- 169 上町さかえ(馬関出雲)@7225ydY0 [2025/06/26(Thu) 13:56]
- 1931年の世界恐慌の波は清帝国にも大打撃を与えたが、政府は国家資本主義を強化し、重工業・軍需産業の拡大により景気回復を図った。特に奉天・錦州の製鉄所は拡張され、兵器生産が大幅に増加した。
1933年には「国家総動員法」が制定され、経済・労働・資源の戦時統制が制度化された。これにより国民生活は統制経済に組み込まれ、労働者には強制的な労働動員が課された。
- 170 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 13:57]
- 1930年代半ば、日本の関東軍は満洲での軍事行動を計画したが、清帝国の強硬な軍事態勢と国際的圧力により満洲事変(1931年)と呼ばれる大規模侵攻は回避された。
しかし、1935年の張学良の「満洲防衛戦略」により、満洲境界線に最新鋭の防衛線が構築され、日本軍との小規模衝突が断続的に発生した。
- 171 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 13:58]
- 1930年代後半、清帝国内部では共産党残党や民族独立運動が断続的に抵抗活動を展開。特にチベット、内モンゴル、新疆地域での反乱は激しく、これに対しては軍が厳しい弾圧を加えた。
同時に、清朝はソ連と秘密裏に協力し、国境地帯での共産党ゲリラ掃討作戦を共同で実施。これにより東アジアの共産主義勢力は分断され、抵抗力は大幅に削がれた。
- 172 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 13:58]
- 1939年に勃発した第二次世界大戦において、大清帝国は日本、ドイツ、イタリアとの連携を模索したが、国内の反戦派や米英との外交関係も存在し、複雑な態度を示した。
1941年には満洲で日中合同の軍事演習が行われ、両国間の緊張緩和が図られたが、太平洋戦争の勃発により再び武力衝突の可能性が高まった。
- 173 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 13:59]
- 続きはまた後で。
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