■掲示板に戻る■
全部
1-
21-
41-
61-
81-
101-
121-
141-
161-
181-
201-
221-
241-
最新50
↓最後
倍子崩政
- 1 出雲の下関/馬関出雲@Z8LyEEA0 [2025/06/11(Wed) 15:35]
- 42期ですね。
私が入ってから2倍・・・🤔
Twitter:URL貼るのめんどい😇
- 152 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 13:36]
- 1913年、張作霖は密かにドイツ帝国との軍事顧問協定を締結。旧日本陸軍からの装備輸入に制限を設け、代わってクルップ社製砲とマウザー銃の採用が決定された。同時に、清朝は中央同盟国(独・墺・伊)との親善使節団を派遣し、「西洋式皇帝専制」の模範としてヴィルヘルム2世体制に学ぶ姿勢を見せた。
- 153 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 13:37]
- サラエボ事件後、欧州で勃発した第一次世界大戦に対し、清朝内では中立を唱える漢族文官と、参戦を主張する満洲派軍人の対立が激化。最終的に張作霖の主導により、1914年12月、清国は中央同盟国の一員として参戦を決定。敵はイギリス、日本、ロシアとされた。
- 154 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 13:38]
- 清朝政府は、日本の山東半島侵略と「東洋の盟主」的野心を激しく非難し、「東亜の主軸は大清帝国にあり」と宣言。満洲・山海関以南では総動員令が敷かれ、張学良が新設された第1皇軍集団の指揮官に任命された。
- 155 上町さかえ(馬関出雲)@zh9HXek0 [2025/06/26(Thu) 13:39]
- 1915年春、大清帝国は第一次大戦の一環として、かつて失われた山東半島を奪還すべく大規模な対日軍事行動を開始した。張作霖は「東征総帥」として自ら旅順に司令部を置き、元奉天派の将兵を中心に構成された皇軍第1集団軍に作戦命令を下した。
- 156 上町さかえ(馬関出雲)@7225ydY0 [2025/06/26(Thu) 13:40]
- 同年5月、膠州湾を防衛する日本陸軍と清国軍が正面衝突。ドイツ製の重砲による猛攻と、塹壕戦術を学んだ清国軍は奮戦し、膠州市街の一部で一時的に主導権を握るも、最終的に日本海軍の艦砲射撃によって退却を余儀なくされた。
- 157 上町さかえ(馬関出雲)@7225ydY0 [2025/06/26(Thu) 13:40]
- 清国軍は膠州敗退後、防衛線を南へ移し、上海・寧波一帯で持久戦を展開。1916年、英軍海兵隊と日本陸軍が共同で揚子江河口を封鎖するが、張学良の指揮による清国水雷艇隊が夜襲を仕掛け、巡洋艦2隻に損傷を与える戦果を挙げた(海口の戦い)
この戦闘を契機に、大清帝国の「皇軍海防隊」は一部で国民的英雄と化し、満漢を超えて皇帝体制への支持が高まった。
- 158 上町さかえ(馬関出雲)@zN75zg.0 [2025/06/26(Thu) 13:41]
- 1916年、ロシア帝国は清国北部に対して干渉を強め、外蒙古およびトゥヴァ地域で清露両軍が小規模ながら激しく衝突。張作霖はこれを「正統な皇恩の回復」と称し、ツァーリ政府との国境線再交渉を拒否した。
- 159 上町さかえ(馬関出雲)@7225ydY0 [2025/06/26(Thu) 13:42]
- 満洲軍は冬季にトゥヴァへ越境作戦を展開、一時ウリャンハイを占領するが、極寒と補給困難のために撤退。この作戦は清軍の戦力投射能力の限界を露呈した一方、満洲技術団による寒冷地工兵術が評価された。
- 160 上町さかえ(馬関出雲)@NyrFcbA0 [2025/06/26(Thu) 13:42]
- 1918年秋、ドイツの敗北が確実となると、清国政府は講和への動きを見せる。1919年、ヴェルサイユ講和会議に「大清帝国特使団」が派遣され、満洲を含む領土保全と戦後賠償の軽減を求めたが、戦勝国とは認められず、逆に山東半島の日本支配を追認される結果となった。
- 161 上町さかえ(馬関出雲)@NyrFcbA0 [2025/06/26(Thu) 13:43]
- この決定に国内は騒然となり、北京・奉天・杭州では「再征山東」を掲げた抗議暴動が起こった(この時期を「恥辱の講和」とも呼ぶ)
- 162 上町さかえ(馬関出雲)@NyrFcbA0 [2025/06/26(Thu) 13:48]
- ヴェルサイユ条約における清国に関する条項は、極めて限定的かつ屈辱的なものであった。
山東半島の旧ドイツ権益(鉄道・鉱山・港湾)は日本に正式に譲渡されることを清国も黙認せざるを得なかった。
青島租界は日本の準植民地化が国際的に容認された。
外蒙古に関して、清国の宗主権は否認され、実質的なロシアの影響圏と見なされた。
清国に対する賠償請求は発生しなかったが、戦後経済援助や復興協定において清国の発言力は極端に小さく制限された。
中央同盟側として参戦した清国の地位は、「戦勝国」としてではなく、「休戦国」として扱われた。
←戻る
全部
前10 次10 ↑先頭
■掲示板に戻る■
read.php ver2 (2004/1/26)